愛しの勘三郎さま
息子の七之助ちゃんが先に弥次さん喜多さんの喜多八役を演じていた(宮藤官九郎監督真夜中の弥次さん喜多さん)のは面白い因縁というか偶然というか。
そういえば喜多さん柄本明の息子柄本祐くんも真夜中の・・・の岡っ引き呑々役だし、てれすこの生臭坊主役麿赤児(怪!)の息子大森南朋♪も真夜中の・・・の拷問される侍役ででている。だいたい勘三郎自身も真夜中の・・・にアーサー王(笑)役で息子と共演してるし。
おもしれー。偶然なのかどうなのか?
喜多さん芝居で吉良上野介に切りかかるところぐっさり刺す大失敗の上、首吊りも失敗してじたばたしたり酒乱大暴れですっからかん。
弥次さん狸に化かされ小泉今日子花魁にだまされ散々な挙句偽坊主になって小泉花魁の葬式やるはめになり、ほんとは生きてた小泉花魁と涙の別れで大団円。ほんとわけわからん。
笑いと涙で至福の時間。
ところでてれすこっていったい何?
マイナー映画同好会10
(アキ・カウリスマキの映画に出てくる料理のことなど)
アキ・カウリスマキって、フィンランドの映画監督なんだけど、
実はしばらくの間女の人だと思ってたんだ。
アキって名前だからって、女の人とは限らないんだけど、
思い込みってあるよね。
ちなみにアキのお兄さんの名前は、ミカ・カウリスマキだし。
そういえば、フランソワ・オゾン監督のことも
女の人だと思ってたし、作家の北村薫も女の人だと
思ってた。
(男性だったよね?)
なんだかおいら思い込み激しい。
さて、それはさておき。
アキ・カウリスマキの「街のあかり」を観てきた。
主人公のコイスティネンは孤独な男。
友もいない。恋人もいない。家族もいない。
だれも彼を気に掛けない。
唯一彼を見ている女性アイラのことを
彼は見ようとしない。
近づいてきた女、ミルヤ。
たちまち恋に落ちるコイスティネン。
しかしミルヤの後ろにはマフィアがついており、
彼女が近付いたのは、警備員であるコイスティネンを
利用するためだった。
ついてない人生を送ってきたであろうコイスティネンを
さらに大きな不幸が襲うこの物語。
カウリスマキって、薄幸な人物を撮ったら
右に出る者がいないほど。
でも、観おわったあとになぜだか暖かい気持ちになるのは、
どうしてかな。
登場人物に対しての視線がやさしいんだよね。
淡々としたストーリー展開なんだけど、
所々に救いを用意してくれている。
コイスティネンって、自ら不幸を呼び込んでいるような男で、孤独なくせに、自分が呼べばすぐに駆けつけてくれる仲間がいるようなことをうそぶく。
あんなに近づくなオーラを出されたら、
誰も近寄らないんだけど、それでも辛抱強く見守っているアイラがいる。
多分アイラ自身も薄幸で孤独な人生を送ってきたであろうことが容易に想像できるんだけど、それでも互いの傷口をなめあう関係ではなく、強がって生きている。
それから、街をうろつく少年。
少年の人生が語られることはないけれど、
きっとこの少年も孤独の中を生きているんだと察せられる。
(最終的にこの少年の機転によって、コイスティネンは救われるわけ)
終始無口で無表情なコイスティネン。
(それは他の登場人物にもいえるけど)
彼が自分の感情をあらわにする場面が3箇所ある。
同僚にからかわれて殴りかかるところと、
服役中に服役囚たちとタバコをすいながら談笑するところ、
出所後、自分を更に不幸におとしいれたマフィアのボスに
ナイフで切りかかる所。
特に、コイスティネンが唯一見せる笑顔が、
ある意味孤独な人間の集まりである刑務所のなかだということに、
彼の心の深い闇が見え隠れするような。
ところで、アイラはトレーラーハウスでソーセージを
売っているという設定。
そのソーセージがやたらうまそうで。
カウリスマキの映画に出てくる料理は、
実は概しておいしくはなさそう。
「過去のない男」の主人公が列車のなかでもそもそと
口に運ぶスシなんて、ほんとにまずそう。
救世軍がホームレスたちに支給するどろどろしたスープなんて・・・うへぇってかんじ。
ところがこの映画では少々事情がちがって、
ソーセージもそうなんだけど、コイスティネンと
ミルヤが食事をするレストランの料理、
マフィアたちが飲んでいる高級そうなお酒(ブランデーかな?)
コイスティネンがミルヤのために焼いたベーグルなど、わりとうまそう。
なぜか、なんていう考察はおいといて、(てゆーか、わからんし)
映画でおいしそうな料理をみるのは単純に楽しいね。
フィンランドというと「かもめ食堂」(小林聡美主演)
を思い出して、この映画、かなりおいしそうな料理が
目白押しだったから、おいしい料理の国って
イメージがあるのに、カウリスマキのほかの映画の料理はそうでもない。
実はかなりの格差社会でもあるらしい。
高級マンションをみあげて半地下の安アパートにくらす庶民。
高級乗用車とならんで走る旧ソ連製のラダというぼろ車。
高級マンションの上の階で、上品な調度品に囲まれながらポーカーに興じるマフィアたちの後ろを、ミルヤが掃除機をかける姿も、滑稽で切なかったな。
ま、とりあえず。
オイラが一番きゅんと来た場面は、コイスティネンが警察に捕まるところ。
あー、なんて哀しくて、愛おしい男なんだろう・・・と。
個人的には、コイスティネンの警備員姿が、制服フェチのおいらの心をくすぐってやまないのであった。
マイナー映画同好会9
いつものごとく、大好きな福島にドライブ。
福島市は、おいらの住んでいる郡山市から国道4号線を北上すること約1時間の距離にある、県庁所在地。
県立美術館や県立図書館、県庁、福島県警、などなど、県の中枢をなす都市・・・
のはずなんだけどさ、なんとなく元気がない感じ。
どちらかいうと、商業都市郡山のほうが賑わいがあるし、観光都市会津若松のほうが県外からのお客さんは多いし、若者は郡山どころか、仙台に遊びにいっちゃうし。
さびれた街の雰囲気。。。
でもさ、おいらそんな福島が好きだったり・・・
大きいデパートとかは撤退しちゃったりしてるんだけど、そのかわり個人商店ががんばってる。
若い人が雑貨とか古着のお店出してたり。
こだわりのあるお店が多いね。
おいらの行きつけの映画館「福島フォーラム」も、そんなこだわりを感じさせる場所のひとつ。
ほんとに映画好きのひとが集まって作ってるって感じ。くる観客もそんな雰囲気の人が多いし。
「善き人のためのソナタ」を観たときのこと。
この映画は、ベルリンの壁が崩壊する5年前の東ドイツが舞台。
シュタージ(国家保安省)による、監視システムにより、盗聴、密告が当たり前となっていた国家。国民一人一人の行動がつぶさに監視され、少しの国家への批判も許されない、恐怖政治。
24時間の監視を受けることとなった舞台作家のドライマンと、恋人のクリスタ、そして彼らを監視するシュタージのヴィースラー。この三人を軸に、崩壊しつつある東ドイツの末期を丹念に描いている。
暗がりで、ヘッドホンをつけて、ドライマンの行動、会話などを機械的に記録し続けるヴィースラーの姿がおぞましい。
多分このヴィースラーには、友達どころか、信頼できる人もましてや恋人もいないだろうということが容易に想像できる。
今まで信頼して何でも話していた相手が、実は密告者で、自分の行動をつぶさに報告していたという恐怖。
耐えられない。
西側の新聞記者に、東ドイツが自国の自殺者の数を発表しなくなった事実と、東ドイツの実態をかいたレポートを渡したドライマンは、シュタージに目をつけられ、家宅捜索される。
レポートを打ったタイプライターの隠し場所が、今まさに暴かれそうになった、その緊迫したシーンで。
突然画面が真っ暗になった。
一瞬、
こーゆー演出なのかな・・・?
なんて思ったけど。
なんか変。
10秒後、音声復活。
でもドイツ語。
おいら日本語も危ういのに、ドイツ語なんてまったく解さず・・・
真っ暗な中、響く人の足音や、家宅捜索をしている人間たちのささやき声、引き出しを開ける音、いらだつ怒鳴り声。ドアを閉める音。
あぁ、真っ暗な中で音だけを聞かざるを得なかったシュタージたちって、こんな感覚だったのかな・・・なんて考えたり。
そのまま映像は復活せず。
しばらく音声のみでお楽しみください・・・なんて放送されたわけではないけれど、たぶん悲劇的な感じをうける音とか、叫び声とかが聞こえてきて、それはそれで、緊迫した状態ではあったが・・・。
かなりして(15分くらいかなあ?)映像も復活。
最後まで無事観る事ができた。めでたしめでたし。
期せずして、盗聴者の感覚を一瞬でも味わったおいら。
(あの劇場の中で、こんなことを考えたのおいらだけだったかも)
密告社会はおぞましい。
それをなんとも思わなくなっている国家もおぞましい。
ヴィースラーが自宅に帰って食べていた、なんだかよくわからない食べ物。なんかどろどろしたものにケチャップみたいなものをかけて、それはそれはまずそうに食べるんだ。
国家保安省の食堂で食べているものもおいしくなさそうだし。
食事を楽しむという、人の根本にあるものが、このひとたちにはなかったんだな、と思った次第。
そういった国家は遅かれ早かれ、崩壊する運命なんだろな。
途中から、ドライマンの反国家的行為を、忠実に報告しなくなって、最終的に背信者となったヴィースラーの心をかえたものは、なんだったのかな。
この曲を本気で聴いたら悪人にはなれないという、「善き人のためのソナタ」をきいたせいなのか、それともクリスタへの恋心のせいなのか、あるいは、崩壊に向かっている国家の危うさを感じ取っていたせいなのか。
それははっきり描かれてはいないけれど、きっとヴィースラーのようなひとが実は多かったんじゃないかな。
実際に壁をハンマーで砕いた人よりも、勇気のあることだったのかもしれない。
劇場をでるときに、おわびのタダ券もろた。
やったね。
また観に来よう。
平身低頭の係員の皆様。
貴重な体験ありがと。
マイナー映画同好会8
最近どんなに寝ても眠い。昨日の夜は10時に寝て、朝起きると7時半。
何時間寝てるんだよって、つっこまれそう。
ただ、良質の睡眠を取れてるかといえば、そうでもないのかもなあ。
遅刻する夢とか、追いかけられる夢とか、ろくな夢を見ないし。
朝起きたときはもうすでにぐったりとしていて、一日の始まりとしてはあまりにも疲れる目覚め。
たまには楽しい夢でもみたいものだのう。
例えば好きな人の夢とか・・・
「人生は、奇跡の詩」
ロベルト・ベニーニ主演・監督
まるで夢の中の出来事のように、幻想的な青い夜。
朽ち果てた石造りの教会で、ベニーニと、ニコレッタ・ブラスキの結婚式が始まる。
てゆーか、「まるで」ではなく、すぐにこれがベニーニ演ずるアッテリオの夢の中だということがわかるんだけどね。
詩人で、大学で詩の授業を受け持っているアッテリオは、ここのところ毎晩同じ女性と結婚式を挙げる夢ばかり見ている。
青く明るい夜の教会。
トム・ウェイツの嗄れた歌声。
この瞬間がいつまでも続いたらいいのに・・・
現実の世界でのアッテリオは、自らの浮気が原因で妻と別れ、二人の娘の学校の送り迎えを仰せつかる身。
夢にでてくる女性は、伝記作家のヴィットリア。アッテリオは彼女に恋焦がれ、何回も求婚するも、はぐらかされてばかり。
友人であり詩人のフアドに久々に再会したというのに、そっちのけでヴィットリアを追いかけていってしまう。
そんな時、故郷であるイラク・バグダッドに帰国していたフアドから連絡が入る。
フアドの伝記を仕上げるためにバグダッドに行っていたヴィットリアが、空爆により負傷し、意識不明の重体だという。
イラク戦争が勃発していたのだ。
映画が始まってすぐに、フェデリコ・フェリーニの「ボイス・オブ・ムーン」を思い出した。
非現実的なほど幻想的であやしくも美しい月の下、ベニーニ演ずるサルヴィーニはさまよい歩く。
フェリーニの後年の作品にでてくるものだけど、「そして船は行く」のラストシーンの、ハリボテの客船と撮影所とか、「ボイス・オブ・ムーン」の月とか、普通、セットでもロケでも、何とか現実に近付けようとするところを、いかにも作り物のような月とか、客船とかを観客にみせている。
映画とは所詮作り物なんだということなんだろーか?
ま、それはともかく、「人生は・・・」の随所に出てくる結婚式のシーンは、夢の中のよーに(だから夢の中だっつーの!!)幻想的で甘いムードを漂わせ、おとぎ話のようなに観る者のこころにしみいってくる。
非現実的なあやしさをもった美しさは、多分「ピノッキオ」にも踏襲されているし、その流れから逸脱していないんだろうね。
そんなメルヘンのような世界と、まるっきり真逆の世界が突如として現れる。
戦争中のイラク。
厳戒体制で、イラクに入国することすら困難ななか、愛するヴィットリアを求めて、赤十字の医師団にもぐりこんでイラクに入国(医者になりすますんだけど、その展開が笑える。これぞベニーニっていう、ごり押しもなんのそのの強引さ)
ようやくヴィットリアのもとにたどり着くが、彼女は瀕死の状態。
薬も無い。ろくな医療設備も無い中、アッテリオは彼女のために奔走する。
一見意味の無いシーンや小道具たちが、後になって意味をもってくる、ストーリーさばきは相変わらず楽しく、秀逸。
地雷原にうっかり足を踏み入れてしまって、周りは大騒ぎなんだけど、アッテリオだけ気づいてなくて、観客のほうがハラハラしたり、ベニーニ・マジックにやられっぱなし。
でも、実はそんな陽気なシーンの根底に流れているのは、やっぱりイラク戦争という暗く埃っぽいものだったり。
映画の前半は、ローマの、雑然とした中にもゆっくりと流れる空気が心地よく、アッテリオの夢の中のロマンチックな雰囲気とも相まって、うっかりとあまーい恋愛映画に身をゆだねそうになるのに、いきなりのイラク戦争。
あまりのギャップに混乱してしまう。
なぜ?
なぜベニーニとイラク戦争???
「ライフ・イズ・ビューティフル」も、戦争や、ユダヤ人虐殺という暗い時代を背景に、ユーモアと愛とを加えて、息子を守り抜く父親を演じ、ベニーニと戦争は切っても切り離せない関係なのかもしれないんだけど、イラク戦争という、つい最近おこっていてまだ終結をみていない、生々しく残酷な現実と、陽気なベニーニが、どうにもうまく結びつかなかったんよね。
(第二次世界大戦と違って、自分がイラク戦争という現実と、今まさに同じ時代に生きている、ということも大きいのかもしれない)
そんなギャップを埋めてくれるのが、ジャン・レノ演ずる詩人、フアド。
フアドは暴走ぎみのアッテリオをやさしく見守り、諭しながらも、自らは絶望のなか、悲劇的な結末を選んでしまう。
フアドこそが、多くを語らずにベニーニとイラク戦争を結びつける重要なバイプレーヤーとなっている。
花びらの舞うなかのフアドが、悲劇的で、でも、美しかった。
それにしても、アッテリオは一途だね。
その一途な愛をこれでもか、と、みせつけられて、こっちは涙腺がゆるみっぱなし。
薬を探してくるからね、とヴィットリアにキスをするたびに、彼女の顔に触れるネックレス。
多分これは後々なにか意味を持ってくるシークエンスなんだろうなあと想像させながらも、最終的にえー、そうだったの!?とびっくりしてしまった。ベニーニに最後までだまされていたおいら。(おいらだけだったのかな?)
それから、夢の中で、アッテリオとヴィットリアのために歌っている、トム・ウェイツ。
いいねぇ。
かなり渋いね。
「ダウン・バイ・ロー」ではベニーニと共演もしている歌手。
この歌声がまた違う味付けとなっている。
ベニーニのはしゃぎっぷりも相変わらず、ニコレッタ・ブラスキの美しさもこれまた相変わらず。
安心してベニーニの用意してくれたゆりかごに揺られて観るがいいさ。
いきなり大きく揺らされてびっくりするからね。
原題である「LA TIGRE E LA NEVE」(英題The Tiger and The Snow)
虎と雪の意味が本当にわかるラストシーン。
しっとりとした感動の中、ほほえまずにはいられない。
5つ星でやんす。
<2007年3月 ビデオにて観賞>
マイナー映画同好会番外編
このまえ、久々にブラックジャック(←おお、チャンピオンコミックス!)を、1巻からずーーっと読みふけったのよ。
さすがに16巻あたりで休憩したけど。
子供の頃から好きだったブラックジャック。
大人になって、全巻大人買いしたときの充実感ったらないね。
かっこいーもん!
全体に漂う場末感、ブラックジャックのダークな雰囲気。
どこをとっても大人のかっこよさがにじみでてる・・・
ところで、最近ずーっと香川照之の出演作品を探しているおいら。
まさに、あった。
「ブラックジャック」(実写版)
ビデオ屋の、隅っこのほうに。
あるのは知ってたけど、どうしても借りる気になれなかったの。
だってさ、だいたいブラックジャックの実写版ってさ、イメージぶち壊しのことが多いんだもんな。
パッケージをみると。
主演:隆大介
すみません、存じ上げぬお名前。
その外見。
オールバックだし。
顔にキズはあるものの、ぜんぜんブラックジャックじゃなーい(否定形)
この前やっと、勇気をふりしぼって借りて、観てみた。
香川君は、ブラックジャックを慕う若き外科医の役。
大病院の不条理に悩みながらも、ブラックジャックに出会うことによって、医者としての本分に気付く。
原作のストーリーを何個か組み合わせて、2時間弱の作品に仕上がっている。
その出来は。。。
意外によかった。
ブラックジャックの外見こそ違うんだけど、それもまたありかなと思わせる雰囲気。
そもそも、原作そのままの髪型にすることに無理があって、実際にやったらまるで鬼太郎じゃん。
だから、実写で出来る範囲のデフォルメの最大限の外見を、違和感なく作り出したということなのかな、って思った。
ブラックジャックの雰囲気も、原作がかもし出しているダークさを踏襲。
も一ついえば、原作って、けっこうコミカルな部分もあって、いままでのアニメでもなんでも、その部分がぬけてたんだよねえ。
やたらとヒーローだったり、暗く熱い情熱みたいなさ。
でも、この作品には、そういったコミカルタッチな感じも含まれてて、かなりよかった。
ストーリー展開も、何個かのエピソードを無理なくつなげて、内容的にもかなり厚みをもたせてある。
原作をそのまま表してもいいものにはならないわけで、この作品は、その壁を見事に越えている。
ついでにいえば、香川君かなりめんごいし。
(つーか、それが一番大事)
あと2シリーズあるんだけど、香川君は出演していない。
借りようか、借りまいか。
悩むところ。
これがほんとにがっくりくる内容で、怒り狂ったのならきっと悩まなかっただろうな。
とゆーことは、けっこうよかったってことかな。
がちがちのブラックジャックファンにはどうかな?オススメしないかな。
でも、見る価値はありよ。手術シーンもリアルだし。