マイナー映画同好会9
いつものごとく、大好きな福島にドライブ。
福島市は、おいらの住んでいる郡山市から国道4号線を北上すること約1時間の距離にある、県庁所在地。
県立美術館や県立図書館、県庁、福島県警、などなど、県の中枢をなす都市・・・
のはずなんだけどさ、なんとなく元気がない感じ。
どちらかいうと、商業都市郡山のほうが賑わいがあるし、観光都市会津若松のほうが県外からのお客さんは多いし、若者は郡山どころか、仙台に遊びにいっちゃうし。
さびれた街の雰囲気。。。
でもさ、おいらそんな福島が好きだったり・・・
大きいデパートとかは撤退しちゃったりしてるんだけど、そのかわり個人商店ががんばってる。
若い人が雑貨とか古着のお店出してたり。
こだわりのあるお店が多いね。
おいらの行きつけの映画館「福島フォーラム」も、そんなこだわりを感じさせる場所のひとつ。
ほんとに映画好きのひとが集まって作ってるって感じ。くる観客もそんな雰囲気の人が多いし。
「善き人のためのソナタ」を観たときのこと。
この映画は、ベルリンの壁が崩壊する5年前の東ドイツが舞台。
シュタージ(国家保安省)による、監視システムにより、盗聴、密告が当たり前となっていた国家。国民一人一人の行動がつぶさに監視され、少しの国家への批判も許されない、恐怖政治。
24時間の監視を受けることとなった舞台作家のドライマンと、恋人のクリスタ、そして彼らを監視するシュタージのヴィースラー。この三人を軸に、崩壊しつつある東ドイツの末期を丹念に描いている。
暗がりで、ヘッドホンをつけて、ドライマンの行動、会話などを機械的に記録し続けるヴィースラーの姿がおぞましい。
多分このヴィースラーには、友達どころか、信頼できる人もましてや恋人もいないだろうということが容易に想像できる。
今まで信頼して何でも話していた相手が、実は密告者で、自分の行動をつぶさに報告していたという恐怖。
耐えられない。
西側の新聞記者に、東ドイツが自国の自殺者の数を発表しなくなった事実と、東ドイツの実態をかいたレポートを渡したドライマンは、シュタージに目をつけられ、家宅捜索される。
レポートを打ったタイプライターの隠し場所が、今まさに暴かれそうになった、その緊迫したシーンで。
突然画面が真っ暗になった。
一瞬、
こーゆー演出なのかな・・・?
なんて思ったけど。
なんか変。
10秒後、音声復活。
でもドイツ語。
おいら日本語も危ういのに、ドイツ語なんてまったく解さず・・・
真っ暗な中、響く人の足音や、家宅捜索をしている人間たちのささやき声、引き出しを開ける音、いらだつ怒鳴り声。ドアを閉める音。
あぁ、真っ暗な中で音だけを聞かざるを得なかったシュタージたちって、こんな感覚だったのかな・・・なんて考えたり。
そのまま映像は復活せず。
しばらく音声のみでお楽しみください・・・なんて放送されたわけではないけれど、たぶん悲劇的な感じをうける音とか、叫び声とかが聞こえてきて、それはそれで、緊迫した状態ではあったが・・・。
かなりして(15分くらいかなあ?)映像も復活。
最後まで無事観る事ができた。めでたしめでたし。
期せずして、盗聴者の感覚を一瞬でも味わったおいら。
(あの劇場の中で、こんなことを考えたのおいらだけだったかも)
密告社会はおぞましい。
それをなんとも思わなくなっている国家もおぞましい。
ヴィースラーが自宅に帰って食べていた、なんだかよくわからない食べ物。なんかどろどろしたものにケチャップみたいなものをかけて、それはそれはまずそうに食べるんだ。
国家保安省の食堂で食べているものもおいしくなさそうだし。
食事を楽しむという、人の根本にあるものが、このひとたちにはなかったんだな、と思った次第。
そういった国家は遅かれ早かれ、崩壊する運命なんだろな。
途中から、ドライマンの反国家的行為を、忠実に報告しなくなって、最終的に背信者となったヴィースラーの心をかえたものは、なんだったのかな。
この曲を本気で聴いたら悪人にはなれないという、「善き人のためのソナタ」をきいたせいなのか、それともクリスタへの恋心のせいなのか、あるいは、崩壊に向かっている国家の危うさを感じ取っていたせいなのか。
それははっきり描かれてはいないけれど、きっとヴィースラーのようなひとが実は多かったんじゃないかな。
実際に壁をハンマーで砕いた人よりも、勇気のあることだったのかもしれない。
劇場をでるときに、おわびのタダ券もろた。
やったね。
また観に来よう。
平身低頭の係員の皆様。
貴重な体験ありがと。
マイナー映画同好会8
最近どんなに寝ても眠い。昨日の夜は10時に寝て、朝起きると7時半。
何時間寝てるんだよって、つっこまれそう。
ただ、良質の睡眠を取れてるかといえば、そうでもないのかもなあ。
遅刻する夢とか、追いかけられる夢とか、ろくな夢を見ないし。
朝起きたときはもうすでにぐったりとしていて、一日の始まりとしてはあまりにも疲れる目覚め。
たまには楽しい夢でもみたいものだのう。
例えば好きな人の夢とか・・・
「人生は、奇跡の詩」
ロベルト・ベニーニ主演・監督
まるで夢の中の出来事のように、幻想的な青い夜。
朽ち果てた石造りの教会で、ベニーニと、ニコレッタ・ブラスキの結婚式が始まる。
てゆーか、「まるで」ではなく、すぐにこれがベニーニ演ずるアッテリオの夢の中だということがわかるんだけどね。
詩人で、大学で詩の授業を受け持っているアッテリオは、ここのところ毎晩同じ女性と結婚式を挙げる夢ばかり見ている。
青く明るい夜の教会。
トム・ウェイツの嗄れた歌声。
この瞬間がいつまでも続いたらいいのに・・・
現実の世界でのアッテリオは、自らの浮気が原因で妻と別れ、二人の娘の学校の送り迎えを仰せつかる身。
夢にでてくる女性は、伝記作家のヴィットリア。アッテリオは彼女に恋焦がれ、何回も求婚するも、はぐらかされてばかり。
友人であり詩人のフアドに久々に再会したというのに、そっちのけでヴィットリアを追いかけていってしまう。
そんな時、故郷であるイラク・バグダッドに帰国していたフアドから連絡が入る。
フアドの伝記を仕上げるためにバグダッドに行っていたヴィットリアが、空爆により負傷し、意識不明の重体だという。
イラク戦争が勃発していたのだ。
映画が始まってすぐに、フェデリコ・フェリーニの「ボイス・オブ・ムーン」を思い出した。
非現実的なほど幻想的であやしくも美しい月の下、ベニーニ演ずるサルヴィーニはさまよい歩く。
フェリーニの後年の作品にでてくるものだけど、「そして船は行く」のラストシーンの、ハリボテの客船と撮影所とか、「ボイス・オブ・ムーン」の月とか、普通、セットでもロケでも、何とか現実に近付けようとするところを、いかにも作り物のような月とか、客船とかを観客にみせている。
映画とは所詮作り物なんだということなんだろーか?
ま、それはともかく、「人生は・・・」の随所に出てくる結婚式のシーンは、夢の中のよーに(だから夢の中だっつーの!!)幻想的で甘いムードを漂わせ、おとぎ話のようなに観る者のこころにしみいってくる。
非現実的なあやしさをもった美しさは、多分「ピノッキオ」にも踏襲されているし、その流れから逸脱していないんだろうね。
そんなメルヘンのような世界と、まるっきり真逆の世界が突如として現れる。
戦争中のイラク。
厳戒体制で、イラクに入国することすら困難ななか、愛するヴィットリアを求めて、赤十字の医師団にもぐりこんでイラクに入国(医者になりすますんだけど、その展開が笑える。これぞベニーニっていう、ごり押しもなんのそのの強引さ)
ようやくヴィットリアのもとにたどり着くが、彼女は瀕死の状態。
薬も無い。ろくな医療設備も無い中、アッテリオは彼女のために奔走する。
一見意味の無いシーンや小道具たちが、後になって意味をもってくる、ストーリーさばきは相変わらず楽しく、秀逸。
地雷原にうっかり足を踏み入れてしまって、周りは大騒ぎなんだけど、アッテリオだけ気づいてなくて、観客のほうがハラハラしたり、ベニーニ・マジックにやられっぱなし。
でも、実はそんな陽気なシーンの根底に流れているのは、やっぱりイラク戦争という暗く埃っぽいものだったり。
映画の前半は、ローマの、雑然とした中にもゆっくりと流れる空気が心地よく、アッテリオの夢の中のロマンチックな雰囲気とも相まって、うっかりとあまーい恋愛映画に身をゆだねそうになるのに、いきなりのイラク戦争。
あまりのギャップに混乱してしまう。
なぜ?
なぜベニーニとイラク戦争???
「ライフ・イズ・ビューティフル」も、戦争や、ユダヤ人虐殺という暗い時代を背景に、ユーモアと愛とを加えて、息子を守り抜く父親を演じ、ベニーニと戦争は切っても切り離せない関係なのかもしれないんだけど、イラク戦争という、つい最近おこっていてまだ終結をみていない、生々しく残酷な現実と、陽気なベニーニが、どうにもうまく結びつかなかったんよね。
(第二次世界大戦と違って、自分がイラク戦争という現実と、今まさに同じ時代に生きている、ということも大きいのかもしれない)
そんなギャップを埋めてくれるのが、ジャン・レノ演ずる詩人、フアド。
フアドは暴走ぎみのアッテリオをやさしく見守り、諭しながらも、自らは絶望のなか、悲劇的な結末を選んでしまう。
フアドこそが、多くを語らずにベニーニとイラク戦争を結びつける重要なバイプレーヤーとなっている。
花びらの舞うなかのフアドが、悲劇的で、でも、美しかった。
それにしても、アッテリオは一途だね。
その一途な愛をこれでもか、と、みせつけられて、こっちは涙腺がゆるみっぱなし。
薬を探してくるからね、とヴィットリアにキスをするたびに、彼女の顔に触れるネックレス。
多分これは後々なにか意味を持ってくるシークエンスなんだろうなあと想像させながらも、最終的にえー、そうだったの!?とびっくりしてしまった。ベニーニに最後までだまされていたおいら。(おいらだけだったのかな?)
それから、夢の中で、アッテリオとヴィットリアのために歌っている、トム・ウェイツ。
いいねぇ。
かなり渋いね。
「ダウン・バイ・ロー」ではベニーニと共演もしている歌手。
この歌声がまた違う味付けとなっている。
ベニーニのはしゃぎっぷりも相変わらず、ニコレッタ・ブラスキの美しさもこれまた相変わらず。
安心してベニーニの用意してくれたゆりかごに揺られて観るがいいさ。
いきなり大きく揺らされてびっくりするからね。
原題である「LA TIGRE E LA NEVE」(英題The Tiger and The Snow)
虎と雪の意味が本当にわかるラストシーン。
しっとりとした感動の中、ほほえまずにはいられない。
5つ星でやんす。
赤ちゃんの力
2027年、人類には18年間子供が誕生していなかった。
未来への希望もなく、テロが蔓延する世の中。
イギリス以外の国はすべて崩壊している。
絶望を生きる主人公セオは、元妻のジュリアン率いる組織に拉致され、キーという少女を、地下組織ヒューマンプロジェクトに引渡す計画を告げられる。
人類に子供が出来なくなっているはずなのに、キーは妊娠していた。
てっきり、「アイランド」とか、「デイアフタートゥモロー」みたいな、普通のSFだと思っていたんだけど、違った。
どちらかゆーと、「28日後」のような、絶望感漂う映画。
戦闘シーンも多いし、全体的に埃っぽく、暗い。
赤ちゃん埃吸わないかな、とか、弾があたりませんように、とか、映画なのにうっかり思ってしまうほどの臨場感。
赤ちゃんの泣き声を聞いたとたん、兵士が銃を撃つのをやめ、まるで聖なるものを見るかのように、赤ちゃんを見つめる。
あぁ、そうか。赤ちゃんには見る者の闘志さえ奪ってしまう力があるのね。。。
フィクションだけれど、来ないとは限らない絶望的な未来。
戦闘の行われている瓦礫の山は、まるでイラクの空爆跡にも見えたし、移民を強制収容所に移送する場面は、過去の過ちを人は繰り返すのだという現実を突きつけられた気がしたし。
重い命題を持った作品。
けど、観た後に希望の光が心に射したのは、やっぱり赤ちゃんの存在によるのかな。
<2006年10月 郡山のどこかの映画館にて観賞>
映画の批評って・・・
ナイト・シャマラン監督の「レディ・イン・ザ・ウォーター」
観てきた。
ナイト・シャマラン監督といえば、
「シックス・センス」で恐怖に怯え、
「サイン」で最後のおちにビビり、
「ヴィレッジ」で人の弱さについて考えさせられた、
なにかしらやらかしてくれる、エライ人。
映画の感想は・・・
うーん、まあ、面白かったけれど。。。
SFなのか?ホラーなのか?ファンタジーなのか?コメディなのか?
観た人によって意見がわかれるかも。
ところで、かの淀川長治さんの、映画に対する姿勢は、
どんな映画にもよいところを見出し、ほめる、
ということだったんだって。
それがあの、みんなに愛される批評のワケだったのかな。
映画でも、小説、ドラマ、何でもさ、
ほめるところを見つけようっていう心意気がすごいじゃない。
わしにはできん。
だから、自分がいいと思ったものだけ紹介せざるを得ない。
だって、あんまりにも酷評されてる映画ってさ、
映画がカワイソウ。
その映画に携わった何十、何百という人々の思いをも、
否定してるような気がして。
甘いといわれようが、
辛口批評や、酷評(てゆーか、悪口)を売りにしている評論家よりも、いいところを少しでもほめようと映画を観てくれる姿勢の人のほうが、
好きだな。
それはともかく。
レディ・イン・ザ・ウォーター
えーと・・・。
要所要所笑えます。
たとえその場面が笑うところじゃなくても。
あーーーー
淀川さんには程遠いわしヽ(;´Д`)ノ
マイナー映画同好会6
めっきり秋ですなあ。
最近、狩人っちゅう二人組が
「磐越西線」という曲をだして、地元である福島県ではやたらとこのCMが流れている。
あのひーのめじるしー
ばんだいさーん
こおりやーまーはーつー
ばんえっつさいーせーんー
この、「ばんえっつ」というところがポイントと思われる。
磐越西線は、郡山から会津若松を経て新潟県新津駅まで、コトコトと走るローカル線。
新幹線マニアではあっても、電車通ではないおいら。
昔々、猪苗代湖まで湖水浴にいくのに乗ったくらいで、
あまりなじみがない。
しかしながら、秋である。
電車に乗って、旅に出たいねえ・・・
今日の映画「家の鍵」
親子が初めて顔をあわせるのは、寝台特急のなか。
15年前、出産で恋人を亡くしたジャンニは、そのショックから産まれた子供、パオロを手放す。
障害をもつパオロをベルリンの施設まで送り届けることになったジャンニは、初めて息子と対峙することとなる。
短い旅をするなか、最初はとまどうジャンニだが、徐々に打ち解けはじめる二人。
ベルリンの施設で出会う、重度障害の娘を介護する女性ニコールの言葉が重い。
娘のために生きながら、心のどこかで娘の死を願っている、その矛盾。
ニコールに、パオロの父親かと問われ、否定するジャンニのとまどい。
この映画では、障害者であるパオロというよりも、突然障害をもつ息子と向かわなければならなかった、若い父親ジャンニの苦悩と戸惑いを中心に描いている。
ジャンニの、線の細い後姿と対照的に描かれているのは、強く娘を思い、しかし自分の中にある感情に苦しむ女性ニコール。
後半は、パオロにとって何が大事なのか、模索しているジャンニの葛藤と、ある決意がゆっくりと描かれる。
ラストシーンが秀逸。
分かり合えたかと、観客側もホッとするような、楽しい場面の次の瞬間、やはりそんなに簡単なことじゃないとジャンニも観ている側も思い知らされる。
涙をこらえきれないジャンニ。
しかし、そんなジャンニにパオロがかける言葉が、新しい涙をさそう。
泣くなんて、そんなのナシだよ。
唐突に思われるエンディングロール。
物語の中途であると思わせるようなそれは、ジャンニとパオロのこれからを示唆しているのであろうか。
つまりは、ジャンニがパオロとともに暮らしていこうという思いは、まだジャンニだけのものであり、映画には出てこない、ジャンニの家族がパオロを受け入れてくれるかはわからないのだ。
しかし、ジャンニとパオロの二人の姿は、甘いだけではない、だが明るい未来を想像させてくれる。
それは、パオロの笑顔と、ジャンニが海に捨てたパオロの杖が象徴している。
二人の関係は、まだ物語の中途なのだ。
そういえば。
ジャンニ役のキム・ロッシ・スチュアート。
ピノッキオでルシーニョロの役だったな。
ロバになってしまうおいしい役。
ロバ君のときは、もうちょっとガッシリしてた気がするんだけどな。今回のキムは線が細くて、はかなげ。首筋がセクシーだわ。